おか目八目 平成16年4月1日
「お国のために死ねますか」


  





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開聞岳






平和会館の前





平和会館





映画「ホタル」






とこしえに






恒久平和への願い









戦史資料室







出撃を見送る







日の丸の鉢巻








国定謙男少佐

★特攻基地を孫達と

 この3月の始め、家内と大学生の孫3人(6.7.8番目の男)計5人で鹿児島県のかつて陸軍航空隊の
特攻基地があった知覧「特攻平和会館」へ行ってきました。実は、「おじいちゃんが青春時代に命を
かけた特攻基地などを一度見たい」との要望からです。

 私は昭和19年夏から、鹿児島県でも湾の向かい側、国分海軍航空隊で操縦教官として勤務。
20年1月に特攻隊を編成。終戦直前の7月からは、神風特別攻撃隊の乾龍隊一番機として待機。
8月の上旬、緊迫時には「出撃30分待機」となり、250`の爆装をした特攻機のエンジンはそのとき既に
始動していたのです。

 このたび回った宮崎、霧島、国分、隼人、加治木など、2泊3日の地域の殆どは、かつて
飛行訓練をした空域であり、霧島山、韓国岳、桜島、鹿児島湾など、その山並み、地形、河川などは
60年前を思い起こさせ、万感の思いが去来しました。

★知覧「特攻平和会館」にて

 薩摩半島にあった陸軍の知覧基地には、全国から特攻要員が集結し、この地が爆弾もろとも敵艦艇に
突入する最後の特攻基地になっていました。南端には富士山型をした開聞岳があり、その山との別れが
本土の見納めとなったのです。

 この基地からは1036名が特攻出撃に向かい、その人達の遺影、遺書、遺品、記録など、貴重な資料が
平和会館に保存・展示してあります。
 20年ほど前にも訪れたことがありますがそのときに比べ、会館及び付近は格段に充実し、
亡くなった人達と同数の石灯籠が道路の両脇に整然と設置されていました。

 ここの基地での物語が映画「ホタル」となり、とても印象深いシーンとなっているのです。
出撃の前夜「ホタルになって帰ってくる」と言って出撃した若き飛行兵士。そして当日、特攻の母と
慕われた富屋食堂の冨子さんの前に、季節はずれの一匹のホタルが・・・、の物語です。 

 この映画に前後し、「特攻平和会館」を訪れる人達がとみに増えたとのことです。


★「紙一重」私の特攻体験

 昭和18年といえば、太平洋戦争がますます過酷となり、昭和19年3月卒業予定の旧制高等専門学校、
大学の卒業時期が前年の9月に繰り上がりました。私の徴兵検査は明くる年でしたが、自ら
海軍飛行予備学生(13期)を志願し、18年の9月に三重海軍航空隊に入隊しました。志願者5万数千人の
中から合格者が4.726名、よくも受かったと思います。なお、この年の秋、学生の徴兵猶予の
制度がなくなり、明治神宮外苑での学徒動員行進を行った人達も12月には入隊しています。
14期予備学生3.312名、1期予備生徒1.993名です。

 私の操縦技術は水上練習機を博多、実用機の零式水上偵察機(巡洋艦にも搭載される
いわゆる下駄履き3人乗り)を四国の詫間で習得しました。19年5月末に少尉任官、アラフラ海近くの
アンボン航空隊に配属が決っていました。ところが転属1週間前に、その基地の航空機がすべて
損傷、転勤が出来なくなりました。

 それで19年の7月から、鹿児島県の国分海軍航空隊の教官兼分隊士として飛行練習生
(甲種予科練12.13期)の操縦訓練と教育指導に当たりました。

 20年、戦局がますます逼迫し、練習航空隊でも特攻編成をすることになりました。当時、先任分隊士だった私に、39期飛行練習生約200人の中から50人の特攻要員を選抜するよう命令されたのです。

 先ず長男を外し、次男・三男などの中から身体強健、操縦技術優秀、志操堅固の練習生50人を
選びました。そしてそれらの要員と共に、熊本県の人吉航空隊、香川県の観音寺航空隊で夜間敵艦艇に
体当たりをする訓練を続けました。私は男兄弟4人のうち次男であり、特攻要員を人選した経緯もあり、
出撃には常に一番機と決めていました。

 そして終戦直前、8月上旬のある日、宮崎県の日南海岸沖にアメリカ艦艇が近接しつつあるとの
情報が入りました。第5航艦司令部からこれに対し特攻攻撃準備の命令。偵察機からの情報にもとづき、
出撃3時間待機から始まり、終には出撃30分待機となったのです。当日は雲が低く、夕方からパラパラと
小雨模様。夕闇が迫ってきましたが、月ももちろん出ない天候です。

 緊迫した空気が流れる中、突如「天候不良につき3時間待機へ」そしてそれが「出撃待機解除、
休め」となり、今日の私があるのです。

 水上機配置の多くの人員は特攻で突っ込みました。終戦間近か、性能の良い飛行機が殆どなくなり、
94水偵、零式水偵など、重い爆弾を搭載でき航続距離があるそれらの機種が特攻機として多く
使われたからです。もしも当時、水上機配属のままであれば、もっと早く出撃し戦死していたでしょう。



★尊い犠牲

 私たち同期のうち、約3分の1強の1.607名がこの戦争で、厳寒の北海に、灼熱の南海の空遠く、
また本土上空に散っていきました。

 神風特別攻撃隊の士官戦没者769名のなかで、飛行科予備学生、生徒出身者は652名であり、
そのうち同期の13期生が447名も含まれています。

 特攻戦法は戦局が絶望的な段階において、大西瀧次郎中将が断腸の決断をしたもので、あるとき則近に
「なあ先任参謀、特攻なんてものは、統率の外道だよ」と。特攻隊各隊の命名式で、大西中将は隊員の
一人一人を抱きしめ、手を握り、身を震わせていました。その姿に自分も死ぬ決意が滲みでていたと
言われています。

 終戦の日、神風特別攻撃隊を編成した大西中将は、特攻戦死者及び遺族への謝罪を記した遺書を残し、割腹自殺をされました。また菊水作戦において多数の特攻機を出撃させた第5航空艦隊司令長官の
宇垣纒中将は、最後の特攻機に同乗し米艦隊へ突入、桜花特別攻撃隊司令の岡村基晴大佐も、
鹿屋基地において自決されています。

 三重海軍航空隊においてわれわれ予備学生の基礎教育を、厳しい中に温かく指導された
国定謙男(くにさだけんお)少佐33歳も、20年8月22日、奥さん31歳と長女5歳、長男2歳を伴って
茨城県土浦市の善応寺の小高い丘で拳銃で妻子の命を絶ち、自らも自決されました。



★孫達の感想から

 鹿児島からの帰りの電車の中で、3人の孫に感想を書かせました。

「僕と年が変わらない人達が敵の艦を沈めるためとはいえ、特攻で死にに行くという話を聞き、
今の平和な時代に生まれてきて本当によかったと改めて思いました。」(孫6番目、19歳、大学2年)

「自分と同じ年の人達が特攻で死んでいったと思うと、今の平和もその人達がいたからだと大いに感謝いたします。そして自分も使命感を持って生きなければならないと感じました。」(孫7番目、19歳、大学2年) 

「この人達の前では何も言えなくなる。それは僕たちにとってとても偉大な人達であるからだ。
このような人達の死の上に立っている僕は、この人達の願いに応えなければならないと思った。」
(孫8番目、18歳、大学1年)

 60年近い昔、当時を想い起こしてみると、「個人というものは、国家とか家とかのより大きな全体が
あってこそ、その中での存在意義がある。兄は長男として後継ぎ、弟2人はまだ若い、次男である自分が
命を捨てる順番の第一番目としてふさわしい。1対1では到底体力のあるアメリカ兵には勝てぬ。
特攻であれば、一艦500人、1000人とも刺し違えることが出来る。アメリカやソ連の占領下の屈辱を
受けるよりは潔く散り、悠久の大義に生きよう」の心境でした。

 現在の私は歳をとり、責任も少なくなり、自分という個人中心の価値観が広がりつつあります。
いま特攻で死んでいった戦友達を思うとき、今の生き方に慙愧の思いがしきりです。最後に思い浮かぶ
戦友の顔に心からご冥福をお祈りし、筆をおくことに致します。