おか目八目 平成17年8月1日 敗戦60年に思う(特攻編成の巻) |
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太平洋戦争の敗戦から今月は60年目にあたります。 私は13期海軍飛行予備学生として、昭和18年9月、三重海軍航空隊に入隊しました。同期4.726名のうち、1.607名が戦死。そのうち爆弾もろとも敵艦に突入する特攻隊での戦死者が447名。正に生と死、天と地を分けた運命の違いに万感の想いが去来いたします。 今月は、生存者といえども、一人欠けまた一人欠ける昨今、私が経験した60年前の海軍航空隊での思い出を書き綴ってみます。 ★操縦の教官になって 昭和19年の7月、四国の詫間で零式水上偵察機の実用機操縦課程が終わりかけの頃です。私は、誰よりも早く、ニューギニアの西方、モルッカ諸島の中にあるアンボン航空隊に勤務が決まったのです。飛行隊長の内示に、「おめでとう、やったぜ・・・」と同期の連中が胴上げをしてくれました。しかし、きびしい戦局のせいか、直前になって基地の航空機が殆んど損傷し、転勤が中止になりました。 前線への代わりに決まった転勤地は、練習航空隊である出水海軍航空隊の鹿児島県の国分分遣隊(その後に航空隊に昇格)でした。 そこでの使用機は水上機ではなく複葉の陸上機、俗に赤トンボといわれた練習機です。 そこで、甲13期飛行予科練を終えた第39期飛行練習生に対し、教官兼分隊士としてし操縦と座学、日常軍務の基本を教えることになったのです。 飛行機の操縦については、一人の教官(士官)もしくは教員(下士官)に対し、練習生が4〜5人、前席が練習生で教える方が後席、つまり1対1で地上滑走から離陸・着陸、またあらゆる空中での操縦のやり方を教えるのです。 昭和19年の暮れ頃、彼らは平均して40時間程度の飛行訓練が終り、離着陸単独はもちろん、特殊飛行(垂直旋回、宙返り、錐もみ、横転など)、編隊飛行、計器飛行、薄暮・黎明飛行も一応はこなせる技量に達していました。 本来でしたら、彼らはここで練習機教程を卒業し、次の実用機(戦闘・艦爆・艦攻・陸攻)の操縦課程に進むのですが、その頃の海軍には機材、燃料、人材ともに最早ゆとりのない段階になっていたのです。 当時、前線から分遣隊長に着任した武田新太郎少佐(航空隊に昇格してからは副長兼飛行長)は、着任早々の挨拶で「こんなむき出しの兵舎や機材庫などもってのほか、今すぐ土の中に埋める」と、アメリカ軍の空襲への対応をすごい剣幕で訓示しました。 昭和19年の10月頃は、国分基地からも台湾沖航空戦に彗星艦爆、九九艦爆などが相次いで発進し、隣りの兵舎にていた響部隊の搭乗員も何回かの出撃のうちに、多くは還らぬ人になりました。 搭乗機に積んだ爆弾もろとも敵艦に突入する神風攻撃隊については、第一号の発進に続き、次々と攻撃が行われたという情報、戦死者名などが次々と伝えられました。 太平洋の島々については、マキン・タラワ、ルオット・クエゼリン、そしてサイパン、テニアンと次々とアメリカ軍の手に落ち、それぞれ日本の守備隊は玉砕。日本本土へのアメリカ軍侵攻の危機が日々近づいてきたのです。 この難局の打開には、残存する機種で特攻攻撃をする以外に手段がないと陸海軍のトップは考えたのでしょう。 ★特攻隊編成のいきさつ 昭和20年の1月、私は司令の菅原大佐、飛行長の菅原少佐、飛行隊長の藤貞大尉らのもとに呼ばれました。「本隊もいよいよ特攻編成をすることになった。 ついては隊員の人選をしてもらいたい」と。 限られた機材、燃料を有効に使うため、特攻要員に対し集中して訓練を行い、短期間に敵艦必中の技倆を磨き上げるのが目的です。私の分隊には練習生が約200名いましたが、その中から特攻要員を50名選出するのです。 当時の私は少尉ながら先任分隊士であり、約200人の39期飛行練習生、下士官教員10数名と同じ兵舎で起居していました。 人選には2日くらいかかったでしょうか。 家族状況を見ながら、先ず要員から長男を外しました。そして、操縦技術が優秀、なおかつ志操堅固の人物を順に選びました。 考えた上にまた考えましたが、どうしても数名足りません。 最後には、長男ではあるが弟がいる者、そして最後の2名については、女姉妹が複数いる者も加えざるを得ませんでした。 私はもちろん男4人兄弟中の次男。 当時の常識では長男は家系の後継ぎ、弟たちは年下でまだ若い。戦死する順番としては私からが当然である。 陸上の戦闘でアメリカ兵と1対1で戦った場合、うまくいって1人倒せたらせいぜい。しかし特攻機で敵艦に命中すれば、何百人とも刺し違えができるではないか。 この難局にあたり、国や家族を守るにはこれしかない。「我、過去において後悔をせず」(宮本武蔵)の心境でした。 人選の数日後、39期飛練の5分隊(分隊長は前田大尉)と40期飛練(分隊長は鈴木大尉)の400名余りに全員集合がかけられました。 そして菅原司令から、「第5航空艦隊司令部の命により只今から特攻隊を編成する。名称は神風特別攻撃隊、乾龍隊・坤龍隊(のるかそるか乾坤一擲にちなんで)とする。 要員を今から読み上げる」。 そして士官、下士官、練習生約120名の名前が読み上げられました。 「名前を呼ばれた人は一歩前へ」。殆んどの顔面は蒼白、私は前もって覚悟の上とはいえ、要員を人選した責任もあり、いつもとは全く違った厳しい表情だったと思います。 ただ映画などに出てくる出撃直前のシーンと違い、特攻訓練に入るという編成の発表で、直ちに出撃でないという意味での救いはありました。 特攻要員から外された士官・下士官は他の実戦部隊に転勤、、練習生は他の基地に移動し、本土決戦対応の穴掘り作業などにつきました。 ★特攻突入の訓練 本来ならば、航空隊の飛行部門とそれをサポートする整備、基地の防衛・管理等々は一つの指揮命令のもとに行われます。 しかし、作戦を効果的に遂行にするためには、飛行部隊は迅速に移動することが必要です。そこで当時、飛行施設のある基地と作戦を遂行する飛行部隊を分ける空地分離という所轄方法がとられました。 その結果、飛行訓練は空襲の危険から少しでも安全なように、われわれは鹿児島県の国分から熊本県の人吉航空隊に移動。そこで特攻訓練を続けることになりました。 人吉はご承知のとおり温泉地。 夜間飛行訓練が終ったあと温泉旅館などに出かけ、結構のんびりした思いもしました。困ったことは、高原の盆地のためすごく寒かったこと。 朝は盆地いっぱいに霧が立ち込め、飛行作業が出来ないことでした。それと隊員全員に虱が湧き、その駆除がたいへんでした。また隊員への栄養補給のため、国分から鶏卵などの栄養物を空輸したこともありました。 ある朝、アメリカ軍の空襲に遭いました。 飛行作業にかかろうと、飛行場のエプロン(航空機が停留する区域)に集合する直前に警戒警報。続いて空襲警報のサイレンが鳴り響きました。私はエプロン近くの7.7mm2連装機銃座のそばにいて、大空のあちこちを見張っていました。 すると、飛行場の滑走路のはるか向こう高度1.500mあたりを、アメリカの逆ガル翼(カモメを逆にした)を持った急降下爆撃機7機がキラキラと銀翼を光らせながら、南下しているではありませんか。そして突如として左翼を傾け、急降下爆撃の姿勢に入り、私達のいる機銃座と格納庫に向かって突入してきたのです。 私は思わず「撃テ」と叫びました。しかし、7.7mmの機銃って頼りないですね。煙を曳いて飛んでいく弾道が直線ではなく緩やかな抛物線で心もとない限りでした。 反対の敵の編隊からは、無数の曳光弾が雨あられ、銃座に向け真っ直ぐに飛んでくるではありませんか。とっさに銃座を取り巻く土嚢壁の後ろに身を伏せました。 とたんに「ズドン」とロケット弾が爆発、衝撃とともに体が30cmほど飛び上がりました。 一回目の襲撃が去り、防空壕の方へ駆け出したら、飛行靴の底がザクザク、左脚部の外側には痛みが走りました。実は私が伏せた1間ばかり左後方でロケット弾が爆発。 その破片が飛行服の脚部を破り、7cmばかりの擦過傷となっていたのです。 それだけでなく、破片の一つは飛行帽、もう一つはライフジャケットを抉り、中からカポックがはみ出ていました。靴底のザクザクは飛行ズボンの砕けたファスナーでした。 人吉飛行場の地表は火山灰、かつ冬場は毎日のように霜柱が立つ柔らかくてぽくぽくした地質です。 そのため投下されたロケット弾がかなり地中に潜り込んでから爆発したようです。 これがもしもエプロンのコンクリート上だったら、またもう5cm伏せ方が浅かったら頭も脚もやられていたでしょう。 思い出してぞっとしました。 ところで二回目の襲撃の1発が防空壕を直撃し、中にいた基地の兵員14名が即死。 そのとき私は隣りの防空壕に飛び込んでいたのですが、敵機が見えない上に激しい爆発音。一回目よりも恐ろしく感じました。 人吉は山の中で海軍さんが珍しく、外出するとかなりモテました。 でも、この空襲のあと外出すると、「アメリカの飛行機にどうして体当たりをしなかったのか」と、さんざん。 アメリカの急降下爆撃機にたいし、日本の赤トンボはスピードが半分以下、もちろん機銃の装備もありません。 丸で幼児と大人の違い、勝負にはなりません。 でもいい訳も出来ず、黙って耐えるしかありませんでした。 (以下、次号)。
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