おか目八目 平成18年3月1

 敗戦60年に思う(特攻隊解散の巻)
   
 
毎月1日更新

★終戦での混乱

 天皇陛下の玉音放送によって、「どうやら日本が負けたらしい」。とたんに体から力がスーッと抜け、どのように行動すればよいか虚脱状態になってしまった。今考えると、特攻攻撃に出て命を落とすこともなくなったのだが、 その時は不思議に「これで命が助かった」という実感は起きず、目標を失い無性に悔しさと悲しさで胸が詰まった。

 海軍飛行予備学生として一緒に入隊し、同じ釜の飯を食い、「靖国神社の庭の梢に咲いて会おうよ」と誓いあった同期の戦友の死はいったいどうなるのか。同期の多分4割近くは既に亡くなっているはず。
 日本の主な都市や工場などは焼け野が原。そこへ憎っくきアメリカやソ連の軍隊がやってきたらどういうことが起きるのか。市民生活は大混乱に陥り、 若い女性は凌辱され、男達は睾丸を抜かれシベリアなどで強制労働につかされるかも、といったことをいい出す連中もいて、不安感が交錯した。

 当時は色んな話が伝わり、何が正しい情報なのかさっぱり見当がつかなかった。(以下は当時耳にしたことであり、事実については全く確認していないので誤解のないように・・・)

・卑近な例としては、国分町の住民の一部が騒ぎだし、徒党を組んで航空隊にある物資を搬出しようとした。(早速航空隊の隊員が武装をし、街を巡邏して騒ぎは一応は収まった)

・鹿屋空(空は航空隊の略)の第五航空艦隊司令官の有馬少将が艦上攻劇機に乗り敵艦に突入した。

・厚木空では搭乗員が決起し、「われわれはあくまで戦う」という伝単(ビラ)をつくり、東京都の上空から撒布した。

 そしてかなりの人数が兵舎に立てこもりいきり立っているという。

・その後の厚木空では、夜中のうちに飛行機の全部のプロペラが誰かの手で外され、飛びたくても飛べなくなってしまった。

・元山空(げんざん:現在は北朝鮮)では、ソ連軍がいち早くやってきて、「搭乗員全員飛行場ニ集合」の号令がかかり、搭乗員を一列横隊に並ばせた上、不意に機銃を掃射し、全員が射殺された。

などのデマとも情報ともつかぬ話で持ちきりになった。


★「搭乗員ハ急ギ帰郷シ待機セヨ」

 多分元山空での搭乗員虐殺の報道などから、「搭乗員は急遽帰省して自宅待機をせよ」、との命令が下った。ともかく敵にとっては特攻隊員はいつ何をしでかすか分からない恐ろしい存在である。一応は休戦状態になったが、
血気盛んな若い搭乗員はいつ爆弾を抱いて攻撃をかけるか、アメリカ軍も戦々恐々だったに違いない。またそういう事実もあったようである。

 そして、彼らがやってくる前に、証拠となってはいけない「軍極秘」「極秘」「秘」などの機密書類である赤本の書籍類、それと航空記録が記入されていた各自の搭乗日誌などはみな集め官舎の庭で焼却した。
 多分8月18日だったと思う。鹿児島県国分基地にあった神風特別攻撃隊の乾龍隊は解散することになり、特攻隊員は飛行機を使うなり何なり、それぞれの方法で帰郷することになった。

 特攻機となっていた九三中間練習機はもちろん使えるので、私は特攻出撃時にペアである三重県尾鷲出身の野地二飛曹を後席に乗せ、とりあえず大分基地まで飛ぶことにした。名前が思い出せないが、あと二機も同行し、三機 の編隊であった。
 大分基地には十二航空戦隊の司令部があり、われわれと分かれた坤龍隊もあるので、燃料補給、整備、宿泊の便などはかってもらえるはずであった。

 ところで夕刻に着陸してみると、司令部は解散したあとで坤龍隊の搭乗員・整備員の一人もいない。これでは燃料の補給も出来ないしこれには困った。
 飛行場で様子を見ていると、南九州の各地から飛び立って着陸してくる飛行機が後をたたない。中にはここまで操縦してきた飛行機を乗り捨て、汽車などで帰省する連中もいる。

 そうした飛行機を「じゃーその彗星を俺に貸してくれ」といって、初めての機種の操作のやり方を聞き出し、それを操縦して帰省する剛の者もいた。


★苦難と災難の連続

 さてわれわれはで泊まるところもなく、食事にもありつけない。思案した挙句、何か手ずるをつかもうと思い立ち、以前に坤龍隊が宿舎にしていた飛行場から1キロばかり南にある小学校に行った。
 小学校の用務員(当時は小使)さんが、「兵隊さんは昨日みんな家に帰られました、でも残していかれたお米が少しあります。おむすびでもつくりましょう」と。それをもち箱のようなところに並べ、飛行場に引き返して6人で食べた。

 私は講堂の隅に毛布をかけて寝り、他の5人は飛行機の翼の下で一夜を明かした。
 翌朝は3機の行き先がそれぞれ別なので、それぞれ単機行動を取ることにした。私はともかく九州を離れて陸続きで家に帰れる本州のどこかまで飛ぼうということにした。

 当時、岩国に陸軍の飛行場があったので、燃料の補給はそこにお願いしてみる考えであった。

 岩国の飛行場に着陸し、出迎えた軍曹の階級章をつけた下士官に、大阪方面まで行ける燃料分の補給をお願いした。

 終戦で海軍中尉の階級章は既に外していたので、横柄な下士官の態度にもただで燃料を入れてもらう弱みもあり、下手に出た。

「何、海軍の燃料はアルコール?うちはまだオクタン価91がまだあるぞ」と自慢。「戦争に負けたのに91もクソもあるか」であった。しかもここで補給した燃料がとんでもない事故につながるところだったのである。

 岩国を離陸し、広島に新型爆弾が落ちて街は全滅という話を聞いていたので、ふと上空から見に行こうか、という気が起った。しかし、機体の整備が不十分だし、燃料もアルコールとガソリンがタンクの中で混合しており、果たしてうまく大阪近辺まで飛行できるか心配もあった。それで最短コースの呉市の南の空を大阪方面に直行することにした。

 高度は800メートル、左に江田島を望み、次に下方に呉の軍港を見下ろして飛行中、「ブルブルブル」と急にエンジン音が低くなりプロペラの回転が落ちだした。燃圧計を見ると、針が0近くまで下がっている。

 「手動ポンプを押せ」と後席に叫び、野地二飛曹が懸命に押すと、ブルルルルル」とプロペラの回転が上がり出す。しかし、疲れてきてポンプを押す力が弱くなると、またもやプロペラの回転が落ち、高度も下がってしまう。
 「力いっぱい押せ、墜落するぞ」と野地兵曹を激励し続けた。

 どこか安全な不時着場はないか見渡したところ、幸いなことに右前方の広あたりに飛行場らしい空地が目に入った。「おい、不時着陸するぞ」で、何 とかその空地に着陸。しかし、建物も人影もない。ここも多分軍か何かに使われたものらしく、終戦で解散した後のようでもあった。

 幸いなことに空地跡からドライバーがみつかり、それでエンジン部分の点検をすることにした。エンジン部のカバーを開け、燃料が注入される部分の燃料濾器(こしき)を取り出してみた。
 驚いたことには、親指状の燃料濾器がペシャンコに歪み、全体に白いカスがこびりついている。これではエンジンに燃料がいかないはずであった。それを力任せに手導ポンプを押したので、濾器が変形してしまったのであった。 
 濾器を掃除して再び取り付けようとも思ったが、また多分に詰まる恐れがあるので、「エーイ、捨ててしまえ」。もしも燃料に固形の異物でも混入していたら大きなエンジン・トラブルの原因になることは分かっていたが、その時はそういうことも言っておれず、その空き地から離陸し、大阪方面に飛び立った。


★こっそりと帰宅

 国鉄の山陽本線沿いを東に飛行すること1時間半、幸いエンジンの調子は順調で、燃圧計も終始正規の位置を指していた。「さて着陸地をどこにしょうか、なるべく鉄道の駅に近いところで」と上空からあちこち観察していると、あったあった西明石あたりの鉄道線路と海岸の間に飛行場らしい空地があり、駅もほんのそばにある。「オイ、あそこに着陸するぞ」で、飛行場らしきその空地に無事着陸。

 搭乗機の九三中練はそこで乗り捨てた。(その九三中練は復員業務のため、その後四国を往復するとき、鉄道の車窓から3ヶ月ばかり、そのままの姿で野ざらしになっていた)。

 その空き地には捨てられた大八車が見つかったので、落下傘バッグに詰めた衣服類などを乗せ、野地兵曹の荷物と一緒に駅まで運んだ。
 野地二飛曹とは大阪駅で別れたが、彼とはその後一度も会ってはいない。(国分海軍航空隊での甲飛予科練13期:飛練39・40期の練習生と教官・教員約400数十名の会合である国分飛友会がその後結成され、毎年1回1泊の集いが50年余り続いた。野地兵曹は乙飛出身の偵察員で、特攻編成の直前に他から転属してきたので、このメンバーには加わっていない)。
 大阪駅を出たときは既に夕暮れ近くだった。市電が走っていて梅田からそれに乗った。両側の町並みは空襲のため殆ど焼け落ち、見る影もない。「我が家は大丈夫だろうか」疑心暗鬼のまま上二に近づくと、奇跡とでも言おうか、そのあたりだけが空襲から焼けずに残っていた。長堀通りを谷町を過ぎ西賑町から空堀通りに入り、やっと焼け残りの一角にある自宅に着いた。

 声を落とし「ただいま」。そこには父と祖母がいた。(母キミは既に5年前に亡くなっている)。
 「あッ、たもつか。お帰り、本当にお前か、お前か、たもつか」(当時
私の名は完でたもつと読んだ。昭和54年12月に戸籍名も今の貫次に変更)。
 祖母は私の両脚を抱え、「ああ、幽霊と違う、脚がある、脚がある、たもつや、たもつ、よう帰ってきてくれた」と、喜んでくれた。目から涙が溢れていた。
 「僕が家に帰ってきたこと、近所にも言わないように・・・」、いつ占領軍がやってきて、特攻隊員狩りをやり、どんなひどい目にあうかも知れないからであった。

 今から思えば、終戦により戦死した者と生き残った者との間に、天と地の大きな運命の分かれがあり、私は非常にいい運に恵まれたのであった。



(この項は一応終わりとします)
  

 

 










上空から見た厚木基地






九三式中間
練習機









プロペラをはずされた飛行機
(厚木基地)