おか目八目 平成18年6月1日 (敗戦60年に思う)海軍飛行専修予備学生(U) |
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★航空機搭乗員への道 「海軍で飛行機に乗っていた」というと、よく「予科練ですか」とか、「零戦ですか」の質問が返ってくる。 「予科練は飛行機に乗らない」と言うとたいてい怪訝な顔をされる。 実は予科練というのは海軍飛行予科練習生の略称であり、その教程が終わったあと飛行練習生となり、初めて飛行機に乗れるのである。また零戦は世界的にも有名な戦闘機ではあるが、これだけが軍用機ではない。 戦闘機は操縦員一人だけが乗員であるが、他の機種は操縦以外の役割を二人以上が分担する。教育過程から分けると、操縦と偵察である。 主な機種には陸上機では戦闘機、艦上爆撃機、艦上攻撃機、陸上攻撃機などがあり、水上機では二座水上機(単浮舟)、三座(双浮舟)、飛行艇があり、それぞれ目的に応じた性能を持っていた。 零戦、紫電改といった戦闘機はスピードが速く軽快に飛行でき、空戦能力に優れていた。九九艦爆、彗星艦爆は主に急降下爆撃用である。九七艦攻、天山艦攻、一式陸攻は水平爆撃と魚雷による攻撃。二式飛行艇は長距離の航続力を活用した偵察、哨戒の任務についていた。 また二座の水上機である零式観測機は戦艦の上空直衛・弾着観測。私が専攻した三座の零式水上偵察機は偵察、哨戒、船団護衛と対潜水艦攻撃が主な役割となっていた。 特攻機というのは機種を問わず、機体に爆弾を装着したまま目標に突入する生還を期さない攻撃に使用する軍用機の総称である。実用機でも形式が古いものが使用され、800キロもしくは500キロ爆弾が装着された。終戦の年には航法の練習機や操縦の中間練習機も投入、250キロ爆弾付の特攻機となった。 その他に特攻専門の特殊兵器として桜花がある。 これは一式陸攻の胴体下に吊るされたまま目標に接近し、その上空近くで切り離し、滑空に近い形で爆薬ともども目標に突入する人間爆弾であった。 偵察員の任務の巾は広い。海軍機の活動は洋上が前提のため、航法を地形・地物にたよることが出来ない。航空母艦からの発進の際は帰投する艦そのものが常に移動している。風向、風力も時々刻々変化するため航法技術の重要性はきわめて高い。 航法の他、通信、爆撃、射撃、偵察、写真など、偵察員の任務は多岐にわたっていた。 機種の希望は圧倒的に戦闘機の操縦であったようだが、私は以前から興味があった水上機を志望。このコースは希望者が少なかったせいか専攻が決定。訓練は水上中間練習機を博多航空隊、実用機は三座の零式水上偵察機(船に搭載される時は巡洋艦)を詫間航空隊において各種の操縦技術を習得した。 昭和19年7月、実用機教程を終え、実施部隊への配属はモルッカ諸島(インドネシア)のアンボン航空隊に決まった。ところが幸か不幸か現地の航空機の損傷・消耗が激しいため、直前になって転属が中止になった。 代わりに決まった転勤先は鹿児島県の出水海軍航空隊国分分遣隊(後の国分海軍航空隊)であった。そこでは教官兼分隊士として主に甲種13期飛行予科練習生出身の39期飛行練習生を受け持ち、陸上中間練習機での教育訓練に当ることになった。 さて、海軍飛行専修予備学生という制度は昭和9年に第1期が発足している。早い期の予備学生は大学・高専在学中に、日本学生航空連盟と学連海洋部に属していたり、高等商船学校出身者が殆どであった。 私らの13期は戦局の苛烈化にともない、昭和18年9月、それまでにない大量採用で5199人が土浦と三重海軍航空隊に入隊。応募者は5万あるいは7万余もあったと伝えられている。うち飛行教育課程を修了したのは4726名であった。その後わずか2年も経ない間に1616人が戦死(34%強)、うち448人が特攻でなくなっている。 生と死を分けたのは本人の資質や努力などとは関係なく、何回も岐路があった運命としかいいようがない。彼らの4倍の年月を生かされている現在、有難さと申し訳なさにひたすら手を合わすのみである。 ★海軍が私を鍛えてくれた 海軍において、数多くの人たち同期生を失ったが、紙一重ともいうべき運命である。 振りかえってみると、海軍における全身全霊を打ち込んだ2年間の貴重な体験がなくては、今日の私がない。 年齢わずか二十歳過ぎで先任分隊士兼教官として、約200の練習生、10数名の下士官教員と兵舎を共にし、経験不足を熱意と積極行動一筋でやり通した体験がその後の私を支えたと思う。 過日、海上自衛隊の練習艦隊が遠洋航海に出発する歓送迎会に出席。若い新任三尉の士官194人の彼らと歓談する機会があった。その中で、かつて海軍兵学校で唱えられ、われわれ予備学生教育においても取り上げられた「五省」が今も海上自衛隊の幹部学校で唱えられていると聞いた。 これは一日のすべての課業が終わり、あとは巡検、就寝だけである。その前に過ぎた一日の自己の行動について反省し、明日への奮起を志すための重要な日課なのである。全員が目をつむり心を静めたあと、当番学生が次の一つ一つを力強く間をおいて唱えるのである。 以前にもこの稿で紹介したが、再掲する。 「五省」 一つ、至誠に悖るなかりしか 一つ、言行に恥ずるなかりしか 一つ、努力に憾みなかりしか 一つ、氣力に欠くるなかりしか 一つ、不精に亘るなかりしか 終戦後ずいぶん経過した昭和45年頃、アメリカの第七艦隊長官だったウイリアム・T・マック中将がこの言葉に非常な感銘を受け、その後これを英訳し、アメリカの海軍兵学校においても教材として取り上げたと伝えられている。 この他、私が海軍士官としての教育と躾について学んだ中に、5分前の精神、出船の心構え、率先垂範、陣頭指揮などがあり、その多くが今なお行動と心の糧となっている。 さて特攻作戦の終末であるが、昭和20年8月15日に日本がポッタム宣言を受諾し終戦となった。われわれが属した第五航空艦隊司令長官の宇垣纏中将は8月15日の夜、部下7機と共に彗星艦爆で沖縄の米軍に突入。 また海軍における特攻隊の生みの親であった軍令部次長、大西瀧三郎中将は翌日に自決。三重航空隊で入隊直後われわれ予備学生の教育に当った教育主任補佐官の国定謙男少佐は8月22日、土浦の善応寺境内で妻と二児の命を拳銃で断ち、自らも自決をされている。 日中戦争から太平洋戦争にかけて、わが同胞だけでも三百万を越える死者を数えるが、今日の平和の蔭には、こうした尊い犠牲者があることを永久に忘れてはならない。(この項おわり) |
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